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名称の変化と戦時

祭りの名称

現在は禊祭り(みそぎまつり)と呼んでいるが、大正のころはハダカ祭りと言い、また蕎麦切祭りとも称していた。池之上は、水田はなく、畑地ばかりで、しかも度重なる水害で、やせ地に蕎麦を栽培することが多く、「蕎麦切り」は、祭りのご馳走であった。やがて、祭礼には、神社の参道の両側に「蕎麦切り」を売る露店が立ち並ぶようになり、ハダカ祭りの名物となっていた。

昭和時代の祭り

葛懸神社の祭りは出雲から帰られる祭神を迎えて、そのつつがなく帰られた喜び、神霊に向こう一年の祈りをを込めるのであるが、神迎えのみそぎが目立つことから、裸祭りとしてよの注目を浴びている。
しかし、禊祭りが充実してきた影には多くの人々の力が注がれている。昭和三年宮司となった後藤森一氏は東京から垂井の南宮神社へ赴任の途中、人を訪ねて池ノ上へ立ち寄ったことが機縁となった。当時神官が欠けていた池ノ上では、森一氏が立ち去った後、彼が神職であると知ると、早速岐阜の宿舎へ押しかけ横取りした形で葛懸神社へ迎えてきた。宮司は長良川の清流を喜び、雪の日にひとり禊ぎをしたり、禊祭りには進んで自身も裸となり練り歩いたりした。そうした努力と、昔からの伝統に守られ、戦時中も禊祭りは続いてきた。青年が絶対的に不足し、酒も入手しにくい戦時であったが、池ノ上の氏子は国からの配給の酒を出し合い、若者の力を結束して守り続けた。鐘や太鼓で気勢を添えながら青年で背負い切ったのである。