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葛懸神社について

池ノ上の鎮守
葛懸(かつらがけ)神社の歴史

池ノ上の鎮守
葛懸(かつらがけ)神社の歴史

沿革

江戸時代の中ごろの「濃陽志略」(1756年完成)には「縣大明神祠」、「新撰美濃志」(1860年完成)には「縣大明神社」、1877年の池之上村絵図に「縣神社」と記されている池ノ上の鎮守である。
1912年ごろから一時「葛縣(くずあがた)神社」とも呼んできた。社地は、長良川右岸の堤防の腹付にあり、ケヤキの大木が繁って森を形成し、中の藤の木が御神木となっていた。この藤は1606年堤防を築いたとき、堤敷となって幹が枯れたが、その根から新芽が出て、目通り186cmの大木となっていた。
1937年長良川上流改修工事で川幅を拡げるため、神社は約200m北の現在地(池ノ上町3丁目47)へ移った。このとき明治以来の宿願であった境内拡張を図ったが実現しなかった。1961年の区画整理のときようやく境内を公園地化することで拡大ができた。
社名確定について、氏子の関心が高まり、戦後、後藤森一宮司は、平安時代の「美濃国神名帳」記載の「正六位上 葛懸明神」ではないかとして、1949年9月氏子総代一同と美濃一ノ宮である南宮神社の宇都宮宮司を訪れ、指導を得て、「葛懸(かつらかけ)神社」とすることとなった。

938年から961年頃に成立したとされる「美濃国神名帳」には、厚見郡十八座が載っており、その中の葛懸神社こそ池ノ上の葛懸神社とされたのである。

祭神

祭神は、擁烈根命(だきつらねのみこと)とその父君五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)となっている。美濃国にかかわりの深い第十二代景行天皇の皇子五十瓊敷入彦命とその妃渟熨斗姫命(ぬのしのひめ)後は、伊奈波神社や金神社にまつられている。五十瓊敷入彦命の皇子擁烈根命は、岐阜市県町の縣(あがた)神社の祭神ともなっている。葛懸神社もながく縣神社と称されていたことから、祭神は擁烈根命とされてきたのであろう。
擁烈根命の兄市隼雄命(いちはやお)は、橿森神社(岐阜市若宮町)の祭神となっている。すなわち旧岐阜町(井之口)の南入口である上加納美園市場の神様となっている。擁烈根命は、自然災害等の災いを除ける神として崇敬されてきたのであろうか。

1949年後藤森一宮司の奔走があって、歴史のある葛懸神社とされ、神社本庁の社名改めの許可、そして銀幣社としての許可を得た。